カテゴリー「大路小路路地」の25件の記事

2019年3月19日 (火)

京都市内・洛中を歩く(7)柳馬場通-4

 前回の続きです。
 「柳馬場通」を南下しています。

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立派な京町家です。のれんが掛っているので、何かをされているのかなと思います。

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手前も京町家(ばったり床几が見えます)と左手は「漢方」のお店の様です。

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西側にある「綿善旅館」さんです。

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続いて西側にある「京団扇・阿以波」さんです。
一頃良く取材にお邪魔させて戴いていました。有難うございました。

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京料理のお店「一の傳」さんです。
こちらも以前はちょくちょくご馳走を戴いていました。
西京味噌漬けの美味しいお魚も購入していました。
食欲の秋、久し振りにご馳走を戴きたいと思ったりしています。

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「錦通」に近付いて来ました。

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「錦通」です。西側を見ています。

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漸く「四条通」に来ました。西側を見ています。
今回は、ここまでとしました。
続きは、日を改めて歩くことにしました。






2019年3月17日 (日)

京都市内・洛中を歩く(7)柳馬場通-3

 前回の続きです。
 「柳馬場通」を下がって「御池通」を渡りました。

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西側にある「白壁」が目立ったお宅です。一見普通の住宅の様には見えません。
後に見える切妻の建物が主屋の感じです。

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南側から見ています。手前の「うだつ」が立派です。
手前側の建物と、その先の白壁の建物とは一連の様に見受けられましたが・・・。

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「三条通」に来ました。その角に建つ建物は、この三条通の並ぶ明治時代の洋館の一つです。建物の天辺にある塔状のものが、その印象を受けます。

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その斜め向かいには、こんな造形物がありました。

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並ぶ京町家で、それぞれに何かの商売をされている様です。

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その中の1軒は、路地の奥で商売されています。

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その入口には、こんな看板が立っていました。食べ物屋さんの様です。

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東側には、こんな石碑がありました。

 次回も続きます。




2019年3月15日 (金)

京都市内・洛中を歩く(7)柳馬場通-2

 前回の続きです。
 「柳馬場通」を、北から南に向かって歩いています。

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二条通を越えました。西側にあったお宅です。普通の住宅とは思えない外観ですが・・・。

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東側にあった保育園です。少し中を覗かせて戴くと、中は広いフローが見えました。
広い体育館見たいな感じでした。

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続いて東側の建物です。道路に面しては手前の様な木の扉があって、その中の奥に通ずる通路には、この様に竹を曲げたアーチ状のトンネル見たいになっています。
不思議な飾り?です。

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右隣のマンションの玄関から見ると、こんな具合です。

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「見真大師」とは、「親鸞聖人」のことです。ここで亡くなられたとのこと。

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その碑の横にあった石碑です。

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石碑の文中にあった「虎石」が町名になっています。

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立派な外観の「京都御池中学校」です。

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その傍には、こんな石碑がありました。
「京都市立堀川高等学校専修夜間部跡」とあります。
「専修夜間部」とはどんな内容の勉強をするのでしょうか?
右横の石造りは、学業用の椅子の感じです。

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さらにその近くには、この様な石碑も。

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「御池通」に出ました。

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御池通の東方向を望んでいます。遠くに見えるのは、「東山連峰」です。

 次回も続きます。





























2019年3月13日 (水)

京都市内・洛中を歩く(7)柳馬場通-1

 暫く休んでいた「洛中歩き」を再開し、「柳馬場通」を丸太町通からスタートしました。
 「柳馬場通」は、平安京時代の「万里小路」(までのこうじ)に当たるそうで、当時の道幅は12mもあったとか。やはり昔は柳並木があったそうです。「馬場」は、慶長9年の豊国祭の臨時祭礼で大規模な馬揃えがあったことから、それに因んだものと言われています。
 今は、五条通までの約2.3Kmの南北の通りです。

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北は丸太町通から始まる「柳馬場通」の北の始点です。
左手の建物は、「京都地方裁判所」です。「竹屋町通」まであります。

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柳馬場通ですから、柳が植えられているのかと思いきや「しだれ桜」でした。

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途中で見掛けた境界の標識は、かつての「司法省」の「司」です。
時々旧役所名の表示を見掛けます。

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竹屋町通を越えると、普通の京都の町の通りの風景になりました。

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裁判所が近い為に、こんな所もありました。
「京都司法書士会館」です。東の方に、「京都弁護士会館」もありました。

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こんなにシンプルな町名がありました。どこにでもありそうな町名ですが、こんなのでも郵便は届くのでしょうか。

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「生神女福音聖堂」(しょうしんじょふくおんせいどう)と言うそうです。
明治36年(1903)に完成しました。京都市指定文化財です。

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見る位置を変えて見ました。本格的な聖堂の中では、現存最古のものだそうです。

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一つ東の通りまで広がった公園です。かつて公家の邸があったのでしょうか。

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京都市内には所々この様な表示があります。
道行くひとにとっては便利でないかと思い撮って見ました。

 次回も続きます。























2018年12月22日 (土)

街のポーカーフェイス展を見る

 地元新聞の記事にあった「街のポーカーフェイス展」を、大丸京都店で拝見しました。
 京都市内で、建物の窓や樹木の凹凸などが作り出す表情が、人間の顔に見えるものを撮影された作品です。作者は、成安造形大講師のグラフィックデザイナーの坂東 勲さんです。

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そのポスターです。

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大丸・京都店内の会場です。1階から2階への階段とその踊り場です。
後日に、もう一度会場に行って見ると、階段の入口ではVTRの映像も見られました。

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作品 1 マンホールの蓋 顔は、踏まれて丸くなる。

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作品 2 トイレの中?

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作品 3 サングラス美女?

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作品 4 しかめっ面?

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作品 5 もうお腹が一杯!兄弟です。

 そこで、自分でこの続きを遣って見たいと思い、動き出していますが、結構発見が難しく
自分ですることは断念しました。













2018年9月23日 (日)

京都市内・洛中を歩く(6)富小路通ー4

 前回の続きです。
 「富小路通」の最終段階に入ります。

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「三条通」に来ました(手前の道路)。北西角に建つ明治時代に建てられた一連のビル群の1つです。

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西側に並ぶ、さそれぞれに個性的な京町家 3軒です。

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同じところを、北の方から見ています。町中で時々見掛ける外燈です。

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西側の比較的大きな京町家です。左手には蔵も見えます。

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こちらも西側で、こちらもそれぞれに個性的な町家が並んでいます。

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「御池通」の手前、西側にある旅館と「てんぷら」の店・吉川さんです。

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「御池通」を、北から南の方を見ています。
左手の車が出ようとしているところが「富小路通」の南側で、手前の道路が北への道です。
これからはその道を北上します。

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こちらも西側です。かつてここに「京都市立商業実修学校」がありました。

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同窓会の皆さんが造られた説明板です。

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間口の広い大きなお屋敷の様です。傍に建つ石碑によれば、「大炊御門萬里小路跡」とありました。お公家さんの邸宅があったところの様です。

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同じく西側には、「京都弁護士会館」です。
その訳は、

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「京都地方裁判所」が、「丸太町通」に面してあるからです。通りからはその横を見ています。右手の緑は、京都御苑です。

 以上で、「富小路通」は終わりですが、この「富小路通」について、資料から。

◆この通りは、豊臣秀吉の「京都大改造」によって生まれた通りです。

◆この「富小路」と言う名前は、平安時代の小路名でした。
◆その旧富小路の道筋は、実は東隣の麩屋町通です。
◆何故それが逆転した訳は不明だそうです。
◆この富小路通は、全く新しく通貫された通りです。
◆秀吉は、京都大改造で、この様に「通り」を増加させることで、人・もの・車の移動を便利にし、経済的効果を上げています。
◆正方形の街区の真ん中に通りを通して矩形の街区にしています。

 猛暑が続く京都市内、暫く「洛中を歩く」はお休みさせて戴きます。


2018年9月21日 (金)

京都市内・洛中を歩く(6)富小路通ー3

 前回の続きです。
 「富小路通」を北に向かって歩いています。この通りには、比較的京町家が多く見られます。歩いていても楽しい通りです。

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四条通を渡って、今来た道を振り返っています。
左手角にあるコーヒー店「ドトール」は、よく行くお店です。

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四条通から、これから歩く先・北の方を見ています。
右手角にある書店「ジュンク堂」も、時々覗く本屋さんです。

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この辺りはビジネス街でもありますので、右手にある様なお店(四富会館)は夕方以降、サラリーマンで賑わっているいることでしょう。

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京町家の活用例の一つでしょうか。「バッタン床几」は京町家の象徴の一つです。

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かつては大きな糸へん商社のお店だったところだろうと思います。

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出入り口を見ています。築100年だそうです。「地ビール」のお店です。
一度味わって見たいと思いました。

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蛸薬師通との角にある旅館です。

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こちらも旅館の様です。

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「旧高倉東小学校」です。「生涯学習部」の看板が掛っていました。市教委が使っている様です。

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こちらも旅館の様です。この辺りを歩いた日が、丁度「祇園祭」の期間中だったので、提燈などがその雰囲気を示していました。

 次回も続きます。




















2018年9月19日 (水)

京都市内・洛中を歩く(6)富小路通ー2

 前回の続きです。
 「富小路通」を歩いています。五条通を越えました。

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五条通から入って直ぐの景色です。

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西側に、こんなお宅がありました。映画の初期のスター「目玉の松ちゃん」です。
彼の銅像は、下鴨神社に行く道の途中にあります。どんなご縁があるのでしょうか?。

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この通りでは、いわゆる「京町家」が、色んな形で存在している様に思いました。
こちらは東側の町家です。「銅器商」とは珍しい、ご商売です。

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こちらは西側です。随分と凄い防御をされたお宅です。
何か大切なものを扱っておられる(またはおられた)お宅かなと想像しました。

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その右手端には、こんな物を見付けました。もう使われていないのかな?
最近災害時の対応に、見直されているとか聞きましたが。

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凄く立派な格子戸のお宅が2軒、並んでいました。

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「仏光寺通」では、この様に少し道がずれていました。
碁盤の目状と言われていますが、何かの理由でこんなことが起きているのでしょうか。

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東側には、この様な白亜の教会がありました。

 まだまだ続きます。次回に。

2018年9月17日 (月)

京都市内・洛中を歩く(6)富小路通ー1

 洛中の南北の通りを歩いています。(カテゴリー「大路小路路地」をご覧ください)
 寺町通から始まって、御幸町通・麩屋町通と来ました。次は、「富小路通」(とみのこうじどおり)を南から北に向かって歩きます。
 麩屋町通の南端は五条通、富小路通の南端は「上珠数屋町通」なので、五条通からそこまで少しだけ歩いて、富小路通の南端に立ちました。なお、富小路通の北端は、丸太町通です。
 ここでちょっと疑問が。「じゅず」の漢字は?数珠か?珠数か?パソコンの漢字変換では前者が、私の参考書では後者が使われています。

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富小路通の南端は、突き当りになっていて「渉成園」(枳殻邸)があります。
東本願寺の飛地境内地です。枳殻(からたち)が植えられていたので、「枳殻邸」とも呼ばれています。東の方向を見ています。

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西の方向を見ています。入口は、西に向かってあります。
通りは、上珠数屋町通です。

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富小路通は、ここから始まります。北に向かって進みます。
左手は、「六条院小学校」のグランドです。
ここから先には、お寺が続きます。主に右手の方です。

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石碑にある通り「長講堂」です。後白河法皇ゆかりのお寺です。
正式には、「法華長講弥陀三昧堂」と言います。
元は六条西洞院にありましたが、度重なる火災のため転々とし、天正6年(1587)に豊臣秀吉によって現在地に移されました。

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山門から少し中を拝見させて戴きました。左手の方です。お茶室の様です。

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「蓮光寺」と言います。手前に石碑が建っていて「長曾我部盛親公廃首之地」とありました。中にお墓がある様です。

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こちらは西側にある「上徳寺」です。浄土宗のお寺です。
慶長8年(1603)に、徳川家康によって、上徳院殿(阿茶の局・家康の側室)が開基となって建立したと言われています。境内には、「世継地蔵」と呼ばれるお地蔵さんが祀られていて、昔から良い世継ぎが授かるご利益があるとして、遠近の人々の信仰を集めているそうです。

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五条通に出る直ぐそば(東側)にあるお寺です。浄土宗のお寺です。
寺伝によれば、源 実朝の後室・坊門信子が貞応元年(1222)に、西八条の遍照心院内に創建し、自らの法名「本覚」から寺の名を付けたのが起こりとか。
天正19年(1591)に豊臣秀吉の命によりこの地に移されたそうです。
この地は、源 融(嵯峨天皇の皇子で、光源氏のモデル)の河原院塩釜の第のあった所です。

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五条通の出入口です。左に見えるお寺が「本覚寺」です。

 五条通を渡って、富小路通を上がります。
 次回に続きます。











 

2018年8月17日 (金)

京都市内・洛中を歩く(5)麩屋町通ー4

 前回の続きです。
 「麩屋町通」を、南に向かって歩いています。

 東西の通り「仏光寺通」から「松原通」辺りを歩いています。

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間口は比較的狭い「京町家」のお宅?ですが、暖簾や木札が見られますので、何か商売でも?とも。「あんず庵」と書かれています。コンパクトな前面の外観です。

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「松原通」と麩屋町通との交点には、「明王院不動寺」があります。
こちらは、松原通に面した部分です。

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京都市が掲示している「駒札」を利用させて戴きました。

もう1つの掲示板には、この「松原通」に関することが説明されていましたので、今回の最後に、少しご紹介します。

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左手に「明王院不動寺」の西面を見て、麩屋町通の南方向を見通しています。

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暫く歩くと、同じく左手には「朝日神明宮」と言う、こじんまりとしたお宮がありました。社伝によれば、貞観年間に丹波国桑田郡穴生村(現在の亀岡市)に造営され、元亀3年(1572)に現在地に遷座されたとか。
天照大神を祭神とし、かつては南北は五条通から松原通、東西は河原町通から富小路通までの広大な社域だったそうで、「幸神の森」(さいのかみのもり)とよばれたとか。かつては8社もあったが、天明の大火や元治の大火で大半が焼失、今は「猿田彦社」のみ。

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そろそろ南端の「五条通」に出ます。

 「麩屋町通」は終了して、1つ西の「富小路通」を、北に向かって歩きます。

 「松原通」についてのお話です。「明王院不動寺」に掲示してあった説明文から抜粋しました。

◆松原通は、平安京造営時には、「五条大路」でした。道幅は8丈(24m)の大通りでした。

◆松原通は、八坂神社と稲荷大社の境界で、北側が八坂神社、南側は稲荷大社のそれぞれ氏子となっています。

◆松原通は、かつて五条大路時代 清水寺への参道でした。

◆平安時代末期、五条橋を渡った「六波羅」一帯は、平家一門の屋敷町でした。
牛若丸と弁慶の出会いも、実は現在の「松原橋」なのです。

◆松原通の地名の由来は、室町時代末期に、荒廃した五条室町に「玉津嶋神社」が建てられていて、その松林が美しく「五条松原通」と呼ばれていましたが、やがて五条が取れて「松原通」となりました。











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