カテゴリー「地域歴史」の109件の記事

2017年12月12日 (火)

京都市右京区京北町を訪ねて(3)

前回の続きです。
 「常照皇寺」の拝観を済ませ、バス停に来ると後1分でバスが来ることが判って、グッドタイミングでした。お昼は「ウッディ-京北」(京都市最初の道の駅)で戴くことにしました。
 その前に、始めに撮ったバス停付近の様子です。

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美しい北山杉の山です。

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微風に揺れるススキの穂達です。

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その「ウッディ-京北」の玄関です。
 

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 早速戴いたのは、ランチの「そばセット」です。量もタップリ美味しく、特にちらし寿司は母親の味でした。

店内の様子です。

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 真ん中に、でんと聳える古木です。

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 怪物の様な古木です。

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その根元に置かれていた説明板です。 

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 名前に相応しい木造の建物です。

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木材の香りがします。 

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 レストランの様子です。
実は、もっと巡りたいところもあったのですが、未消化のままで終わってしまった感じでした。「山国隊」関連の場所など。
次回に繋げれば良いのですが。

 

 

 

 

 

2017年12月11日 (月)

京都市右京区京北町を訪ねて(2)

 前回の続きです。
 町中を通る国道477号線を目的地に向かって歩いていますが、未だ3分の1にも達していないところで、道が2つに分かれています。そろそろバスに乗りたい気分にもなって来て、バスがどちらの道を行くのか判らなくなり、結局「島崎」と言うところで、バスを待つことにしました。
 バスに乗ること約10分、漸く目的地に到着しました。「山国御陵前」です。

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「山国御陵」の石碑です。左手に見える道を集落の中に入って行きます。

緩やかな坂道を進みます。自然石の石段をゆっくりと。

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「常照皇寺」の山門が見えて来ました。

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歩き辛い石段の先には、「勅使門」が見えました。

そちらの方には行かず、やや遠回りをして、「方丈」の入口に向かいました。
受付には人は居られず、任意の拝観料(300~500円)をお金入れに置き、
上らせて戴きました。

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方丈の縁側からは、国指定の天然記念物の「九重桜」が見えます。
花が咲いていないと、映えませんね。

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少し近くに寄っても、こんな様子でした。老木の感じはします。

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右手は、「開山堂」です。開山は、南北朝時代の北朝の初代天皇の
「光厳天皇」です。貞治元年(1362年)に開かれました。

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方丈の内縁を回って見ました。色んな形のお庭を見ることが出来ました。

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小さなお池には、紅葉した木々が映えていました。

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方丈の前のお庭です。お庭への入口が見えます。禅寺らしい雰囲気を感じました。

続いて、方丈の内部を。

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襖絵に注目でした。

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立つ位置を変えて見ました。

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床の間を。

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暗闇の世界から、光の世界を。

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方丈の真ん中には。

最初にご紹介した「山国御陵」とは、ここ常照皇寺の裏山にある
 北朝初代の 光厳天皇 及び 第102代 後花園天皇 の御陵です。



















2017年12月10日 (日)

京都市右京区京北町を訪ねて(1)

 久し振りに(本当に久し振り)京北町を訪ねました。京都市右京区に編入されてから初めてです。JR京都駅前からJRバスで約1時間半、幾つかの峠(トンネルになっていましたが)を越えて、終着の「周山」に着きました。
 周山からは、丁度タイミングの良いバスが無く、兎に角歩き始めました。
 目的地の「常照皇寺」まで約9Kmあるとか。

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周山のバス停に停まっていた「京北ふるさとバス」です。正面です。

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そして、ボディの横です。

国道477号線を、「常照皇寺」に向かって歩き始めました。

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 視界が開けたところに来ました。初めて目にした集落の様子です。
流れる川は、「上桂川」です。

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 大きくして見ますと、茅葺の家も見られます。

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 里の秋の景色です。

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 道の左側の家々です。

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 上のお宅の奥には、この様な蔵が見られました。

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 少し遡ったところの「上桂川」です。上流に向かって歩いています。

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 途中で見掛けた看板です。
明治維新の時の「山国隊」は、歴史的にその実績は有名です。
「時代祭」の先頭を行く「ピ-ヒャラドンドン」は、ここが発祥の地です。

 

 次回に続きます。


























2017年11月25日 (土)

南禅寺周辺の紅葉(3)無鄰菴

 前回の続きです。
 「南禅寺付近の紅葉」の最後は、「無鄰菴」に向かいました。南禅寺から歩いて約10分程で着きます。
 「無鄰菴」は、明治・大正の元老「山縣有朋」の別荘で、明治27~29年に造られました。
 受付を済ませて、中に入ります。

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庭園の東に向かってのほぼ全景です。7代目の小川治兵衛の作庭です。
今回は、左手の北側にも道が造られていて、そこを通って奥に進みました。
遠くに見えるのは、東山連峰で、借景になっています。

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北側に、一際目立った紅葉の木々です。

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一番奥にある「3段の滝」です。琵琶湖疏水の水が使われています。

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滝から流れる水は、小川治兵衛独特の流れの形になっていて、その水面に映えた彩りでした。

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こちらも北側に立つ、やや大きな木の紅葉です。一際目立っていました。

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紅葉した木の並木状態でした。こちらも北側です。

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木造2階建ての母屋の近くの様子です。

以上で、南禅寺付近の紅葉(天授庵・南禅寺・無鄰菴)をご紹介しました。
今年は、京都市内の紅葉のスピードが、予想以上に早く、追っ駆けが追い付かない状況です。後どれだけご紹介出来るのか、やや焦り気味状態です。





2017年10月27日 (金)

大政奉還150周年(3)新選組-4

 前回の続きです。
 「新選組」が壬生界隈に活動の場を置いていたのは、文久3年(1863)3月から慶応元年(1865)2月の間でした。隊員数は 68名でした。
 慶応元年5月には、100名を超えましたので、より広い場所を求めて2月末に
「西本願寺」に移りました。「北集会所」に屯所を置いたそうです。現在はその建物は他所に移築されています。

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右の建物は、「太鼓楼」ですが、この辺りに屯所があったそうです。

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その「太鼓楼」についての駒札です。

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西本願寺が、太鼓楼の近くに掲示されている説明文です。丁寧に説明されています。
当時、西本願寺にとっては、大変迷惑な話だったかと思います。
慶応3年(1867)6月まで、ここにいました。

 その後に移ったのは、ここから南へ約500m程行った所でした。
 「不動堂村屯所」と言います。

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堀川通塩小路にある「リーガロイヤルホテル」がある付近です。

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ホテルの表示がある黒い囲いの中には、この様な石碑がありました。

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石碑の傍には、この様な金属製の銘板がありました。
ここでは隊員は、157名程だったそうです。

 幕末、世情不安な京の都の治安を取り締まるために置かれた「京都守護職」に、会津藩主・松平容保は、黒谷の「金戒光明寺」(こんかいこみょうじ)に本陣を置きました。藩兵約1000人を率いての上洛でした。

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金戒光明寺の山門には、「京都守護職 本陣」の木札(左側)が掲げられています。

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以前のNHK大河ドラマ「新選組」のタイトルバックに、隊員達がこの石段を上がって行く場面がありましたが、多分ここでは無いかと撮りました。

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本堂です。
本陣は、どこに置かれたのかな?本堂でないでしょう。では何処に?

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本堂の右手の大きな建屋がありましたが・・・。食堂のようですが・・・。

 新選組は、会津藩預かりの組織でしたから、近藤局長など幹部ら時々ここにも来ていたのではないでしょうか?
 金戒光明寺の境外には、ここで亡くなった会津藩士達の多くの墓があります。

 新選組ゆかりの地を訪ねては、今回で終了です。














2017年10月25日 (水)

大政奉還150周年(3)新選組-3

 前回からの続きです。
 「新選組」が、市中の見回りや取締りに活躍し始めると、隊員を増やす必要があり、増員していきました。100名を超える様になりました。また活躍のご褒美として金回りも良くなって来ました。

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「島原大門」です。勤皇倒幕の志士に人気の場所でした。従って、それらに対する「新選組」が出入りしていました。

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要領良くまとめられた駒札を利用させて戴きました。

「島原」の中で人気があったお店を2つ。

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その1つ、「輪違屋」(わちがいや)です。新選組も通っていたとか。
置屋兼揚屋でした。

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通常は公開していませんが、文化財の特別公開時などに公開されています。
何年か前に、拝見したことがあります。

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島原界隈には、今もかつての面影を留めるお宅があります。

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こちらのお宅も同様です。かなり大きなお宅です。

次は、有名な「角屋」(すみや)です。かなり大きな建物です。

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近くに寄って見ました。

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扉は閉ざされていますが、玄関です。
現在は、「角屋もてなしの文化美術館」として、公開されています。
こちらも一度拝見したことがありますが、屋内は大変広いです。

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こちらが一般公開の出入り口になっています。
石碑には「新選組刀傷の角屋」と刻まれています。

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角屋(左側)前は美しい石畳になっています。小雨に濡れて、鈍く光っていました。
南から北を見ています。

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丁寧な説明を利用させて戴きました。

 「新選組」はその後隊員が増加したため、壬生界隈からより広い場所に移動して行きます。

 次回に続きます。




 

 

2017年10月23日 (月)

大政奉還150周年(3)新選組-2

 前回の続きです。壬生界隈を歩いています。
 前川邸や八木邸を「屯所」としていた「壬生浪士」達は、「壬生寺」で訓練をしていたとか。

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「坊城通」に面した「壬生寺」の山門前です。

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今の壬生寺の境内図ですが、当時(幕末)では「本堂」(それもこんな立派ではなかった?)だけしか無かったとすれば、可なり境内は広く、新選組がここで訓練することは可能だったのでは無いかと想像します。

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中々立派な本堂です。ご本尊は、お地蔵さんです。

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最近京都市内で良く見掛ける風景です。
彼女らがいる場所の左手には、新選組関係の史料などがあります。

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その建物に掲げられていた掲示でした。

彼ら(壬生浪士隊)が、壬生屯所にいた時に、あの有名な「池田屋騒動」が発生しました。元治元年(1864)6月のことです。

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当時旅籠だった「池田屋」は、三条通木屋町西入ル南側(東海道の終点・三条大橋の近く)にあります。

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現在は、ご覧の様に飲食店になっています。

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「維新史跡・池田屋騒動之址」の石碑が、場違いな雰囲気の中に立っています。
新選組は、クーデターについて密会中の長州藩志士達の中へ切り込みました。
この騒動により、新選組の名前が一躍有名になった反面、倒幕の進行が遅れたとか言われています。

次回も続きます。




















2017年10月21日 (土)

大政奉還150周年(3)新選組-1

 「大政奉還」と言う面から見て、「新選組」の存在はそれを阻止する力と言えますが、結果は虚しく散って仕舞ました。しかし、NHK大河ドラマの影響もあり、「新選組」は若い人を中心に息長い人気を保っている様に思います。

 今回は、京都市内にある「新選組」ゆかりの地を訪ねました。

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文久3年2月、京都に入った「浪士隊」は、ここ「新徳寺」(壬生寺の向い)に本営を置きました。当時のリーダーは「清河八郎」でしたが、後に目的が違うと言うことで江戸に引き上げました。
それに反発して京都に残ったのが、芹澤鴨や近藤勇達24名でした。彼らは
京都守護職・会津藩主 松平容保の預かりとなりました。

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彼らの宿所になった1つ、「前川邸」です。屋敷続き(南隣り)が「新徳寺」です。

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前川邸の長屋門に貼られていた邸の間取り図です。見難くて申し訳ありません。左手が新徳寺です。

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少し門から中を覗かせて戴きました。公開はされていませんが、中では何かお仕事をされている感じでした。

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前川邸の横の「坊城通」に面した様子です。右奥が新徳寺になります。そしてその向いが「壬生寺」です。

もう1つの宿所は、前川邸の道を隔ててある「八木邸」です。

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その入口に建っている石碑「新選組遺跡」です。こちらは公開されています。

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右手にある和菓子屋さんで入館料を払い中へ。

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またまた要領良く書かれている駒札を使わせて戴きました。

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お馴染みの旗が掲げられているこの門から中は、撮影禁止になっていました。
着物姿が見えるところが式台です。

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門の右手の様子です。
ここでは、文久3年9月に芹沢一派が、近藤らによって暗殺されました。
その時の刀傷と言うのが、座敷の鴨居にありました。

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「八木家住宅」についての駒札です。

「壬生浪士隊」が、「新選組」と名乗ったのは、文久3年8月に「8.18の政変」(長州勢力が、三条実美らの公家達とともに都落ちした)の時に堺町御門の警備に当たった時に武家伝奏から戴いた時からです。

この後は、隣りにある「壬生寺」に向かいました。
次回に続きます。










2017年10月14日 (土)

京都大 花山天文台へ(2)

 前回の続きです。
 「花山天文台」の本館にいます。ドームの外の回廊に出て見ました。

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右下に見えるのは「別館」です。口径18cmの屈折望遠鏡があるそうで、現在は太陽の観測に用いられているそうです。現役としては、日本最古の望遠鏡で、データは最先端の科学研究に用いられているとか。
左下の小屋風の建物は、「歴史館」です。この後見学しました。

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ドームの外から、山科盆地の一部(南部と思われます)が見えました。
右手の山並みは、東山連峰の南端かと思います。
また、左手の山並みは音羽山から南へ、醍醐・宇治に繋がる山々だと思います。
「本館」から下りて来ました。

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「歴史館」です。旧子午線館だそうです。本館・別館と共に1929年の花山天文台設立当初からある建物です。
当時は「子午儀」を用いて、正確な時刻を知るための観測が行われていました。

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これがその「子午儀」です。こちらの屋根も、観測時には開く様になっています。

最後に、もう一度「本館」を眺めました。

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現在、花山天文台では、太陽物理学、太陽・宇宙プラズマ物理学、恒星物理学の研究が行われているそうです。
また、「アウトリーチ活動」と称して、教育関係者や高校生などの研修・実習にも広く活動されているそうです。

天文台長の柴田先生は、京都と宇宙を結ぶ新たな観光名所を目指しておられるそうです。
この種の建物が、文化財特別公開になったことも、意義がある様に思いました。

 






2017年10月12日 (木)

京都大 花山天文台へ(1)

 「京の夏の旅」2017の中に、「京都大学大学院理学研究科附属天文台・花山(かざん)天文台」が入っていたので、大変懐かしく思い、見学させて戴きました。9月30日までの催しです。
 地下鉄東西線の東山駅からシャトルバスが出ているので、それを利用させて戴きました。公共交通機関がないので、大変有難く嬉しかったです。結構利用されている方がおられました。東山駅から「東山ドライブウェイ」を通って約10分程で着きました。そこから少し歩いて現地に到着しました。

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入口の看板です。当初からのものらしく、かなりの年季ものです。
設立は、1929年ですから今年で88年になります。

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そこからでも、この様な山道をもう少し歩きます。

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暫く歩くと、木の間からドームが見えました。

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漸く「本館」に辿り着きました。
建物の中は、狭い階段の連続です。

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ドーム内の望遠鏡があるところに着きました。
国内で屈折望遠鏡としては3番目の口径を持つ45cmの屈折望遠鏡です。
天体の追尾には、現在でも重力時計が用いられています。右手の錘はそれのものです。

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見る位置を変えて見ています。
当初は口径が30cmの反射望遠鏡だったそうですが、口径が45cmとなると焦点距離が長くなって、このドームに入らないので屈折望遠鏡になったそうです。ドームの直径は、9mあります。

 次回にも続きます。







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