カテゴリー「地域歴史」の129件の記事

2018年7月29日 (日)

京都鉄道博物館へ行く(番外編)

 前回の続きですが、今回は「京都鉄道博物館」へ行く途中でのことです。
 市バスを「七条大宮」BSで下車し、「鉄博」に向かいました。

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実はお洒落な「道標」なのです。七条大宮の南西角にありました。
右(東)に行くと「京都駅」、手前(南)に行くと「京都水族館・京都鉄道博物館」を示しています。物体は、「電気機関車」です。

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「ペンギン」が2羽、「京都水族館」を示しています。
「梅小路公園」の入口にありました。

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公園内の道の途中にあったのが、これでしたが「可愛い女の子」でしょうか?
「緑の館」とは、公園内の施設の1つです。

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水族館に近付いて来ました(右側)。「アシカ」?。水族館でショーを遣っている筈?(実は未だ水族館には行ったことがないのです、鉄博に行く時、何時も右手に見つつ通り過ぎています、1回来ないとねえと言いながら)。

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梅小路公園内には、「市電のひろば」があって、旧京都市電の電車が数台置かれています。時に「チンチン電車」が動いているのも見掛けます。

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同じく公園内です。市バスと地下鉄のマスコットです。

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「鉄博」に近付いて来ました。トンネルから出て来た「トワイライトエクスプレス」と見ましたが・・・。

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京都市電でしょう。どれも上手くデフオルメされていて、親近感があります。

 漸く「鉄博」に到着しました。

2018年7月28日 (土)

京都鉄道博物館へ行く(2)

 前回の続きです。
 目的の企画展を見た後は、「鉄道ジオラマ」を久し振りに見たり、外へ出て「扇形車庫」や「SLスチーム号」を見たりしました。

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新幹線500系など、JRの特急達。

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新幹線0系など、懐かしの車両達。

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特急車両を牽引していた電気機関車。

外へ出ました。

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「扇形車庫」を見ています。SL達は中に入っているので、良くは見えません。

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「転車台」上のSL 2両です。

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扇形車庫の外側に置かれたSLです。

「SLスチーム号」が、スタンバイしています。

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懐かしいSLの煙が、時に風に乗ってこちらにも流れて来ます。

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動き始めました。もっと蒸気を激しく噴き出して欲しいなあと思いつつ、見送っていました。

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梅小路公園まで行って、折り返して帰って来ました。
SLは、何時見ても惹かれるものがあります。

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最後になりましたが、「京都鉄道博物館」の正門前です。
左手に少しだけ見えているのが、「旧二条駅」の和風の建物です。

 帰りのバスは、この前から出ています。



























2018年7月27日 (金)

京都鉄道博物館へ行く(1)

 猛暑の中、京都鉄道博物館の企画展「明治の鉄道人物伝」鉄道の夜明けを支えた14人の男たち を拝見して来ました。
 結構見応えかある企画展でした。7月16日までの開催で、13日(金)に行きました。猛暑の中、夏休み前とあって、入館者は少な目でしたが、中国や韓国の人が目立ちました。最近の京都市内の現状です。
 企画展は、本館2階の展示室でした。

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展示室の入口にあったこの展示のポスターです。

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展示室内に入って、真ん中に立って全体を見渡しています。

右手の人物 「井上 勝」は、鉄道の日本導入の中心人物の様です。
明治3年(1870)12月に工部省が設置され、翌年9月にはこの井上が鉱山頭兼鉄道頭に任命され、鉄道行政を一手に担っていきました。
井上は、長州藩士で、伊藤俊輔(博文)らとイギリスに留学しています。当時は野村弥吉と言いました。晩年は、子爵になっています。

左手の人物 「藤岡市助」は、工部大学校で電信学を学び、当時の日本の電気工学の第一人者で、後に日本初の電気鉄道となる京都電気鉄道(のちの京都市電)の営業の開始を指導しました。

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留学時代の井上 勝です。

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上の写真の左手には、井上の言葉と、自室の一部が再現されています。

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萩市にある井上 勝の銅像の台座の石材の一部です。

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新橋停車場のホームの石材です。
旧暦明治5年9月12日(1872年10月14日)日本で初めての鉄道が、新橋~横浜間に開業しました。

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初代の京都駅舎です。

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日本初の京都市電 狭軌 1型です。

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藤新平は、乱立する鉄道会社を買収し国有化を図り、従業員88,000人の巨大組織となった国有鉄道の初代責任者となり、規格の統一を推進しました。

 企画展はこの辺りまでとして、久し振りの館内などを回りました。
 次回で、ご紹介します。












2018年6月17日 (日)

緑陰を辿って東山麓を歩く(その2)

 前回の続きです。
 「曼殊院」の前まで来ました。

 

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曼殊院の表門前です。拝観などは左手の道から入ります。

 

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また少し中を覗き見しました。立派なお堂が見えました。

この近くの東山連峰の山は、第5峰の「葉山」らしいのですが、良く判りませんでした。お昼になったので、ここから白川通に向かって、なだらかな坂道を下りました。
お昼を「銀閣寺道」沿いにある馴染みの食堂で摂りました。
そこでは、偶々静岡県の「牧の原」の修学旅行生と交流し、「牧の原茶」を戴きました。

午後は、「哲学の道」を歩くことにしました。

 

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この道を真っ直ぐ行くと、「銀閣寺」に行けますが、右に折れて「哲学の道」に入りました。
なお、銀閣寺の庭園の借景になっているのは、第10峰 月待山です。
室町幕府第8代将軍・足利義政は、次の様な歌を詠んでいます。
わが庵は 月待山のふもとにて かたむく月の影をしぞ思ふ

 

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入口の標識です。向こうに見えるのは、上の「銀閣寺橋」です。

 

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琵琶湖疏水の分線の流れに沿って、哲学の道を歩きます。
流れの方向は、京都市内の流れの内、唯一北に向かって流れています。

 

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哲学の道から分かれて、少し坂道を上がったところにある「法然院」の萱葺の山門です。

 

門をくぐって境内に入って、直ぐに目にするのは、この眺めです。

 

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参道の左右には、砂を盛り上げた造りです。
右にもあるのですが、光が当たり過ぎて、真っ白になって仕舞ました。

 

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右の造りも、左と同じものでした。

 

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左へ行くと庫裏へ、右へ行くと本堂へ、その分岐点です。

 

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本堂への道の傍には、この様な木の根っこが広がっています。

 

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左手に本堂があります。殆ど人が居ない静寂そのものの佇まいでした。

境内の小さなお堂では、「あかりとひびき展」が催されていて、拝見しました。
その様子は、次回にご紹介します。

 

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山門を内側から、見ています。
「法然院」の近くの山は、第14峰・善気山です。法然院の山号になっています。

 

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ここが法然院への正面入口です。石段を上がって左手に進みます。

法然院に通じる道を、南下します。

 

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「安楽寺」です。
後鳥羽上皇の官女・鈴虫と松虫が、法然の弟子・住蓮と安楽にまつわる悲劇ゆかりのお寺です。

 

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その南にある「霊鑑寺」です。臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院です。
多数の名椿が植えられています。

 今回の散歩は、ここで終わりとし、哲学の道から白川通に出て、東天王町にてコーヒータイムを楽しみ帰途につきました。

 次回は、法然院で見た「あかりとひびき展」を、ご紹介します。

 

 

















 

2018年6月16日 (土)

緑陰を辿って東山麓を歩く(その1)

 新緑の季節、朝晩の気温差も大きい日々ですが、日中やや汗ばむ様になりました。涼しさを求めて、新緑の緑陰を辿りつつ、東山の麓の道を歩きました。
 スタートは、東山36峰の第3峰・赤山の「赤山禅院」(せきざんぜんいん)です。「赤山禅院」は、紅葉の名所でもあります。


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鳥居があります。ここは神社? 扁額には「赤山大明神」とあります。
兎に角鳥居をくぐって中へ。

 

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やがて山門が。そこには、こんな表示が。

 

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天台宗修験道総本山管領所とあります。
ここは、比叡山の千日回峰行者さんにとっての「聖地」です。
また、ここは京都御所の表鬼門にあたり、「皇城守護」の寺、延暦寺の守り神でもあります。神仏習合の色を濃く残してもいます。

 

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参道は、正に「緑陰」です。

 

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石段の下から参拝をさせて戴きました。

元来た道を通って、次のポイントに行きます。

 

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山門の傍のお宅の屋根は、ちょっと変わっています。
元は、茅葺の屋根だったのかも?

 

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次に遣って来たのは、第4峰・修学院山」の麓に広がる「修学院離宮」です。
以前は拝観手続きが大変でしたが、今はかなり簡略になっている様で、当日受付のテントがありました。

 

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門の中を少しだけ、覗き見を。

 

門の前の道を南下。

 

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少し行くと、こんな山門のお寺の前に。地図で調べると「禅華院」とありましたが・・・?
調べて見ると、解脱山・禅華院(ぜんけいん)と言い、臨済宗大徳寺派で、門は「鐘楼門」と言い、2層目は鐘楼になっています。

 

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山門から中を覗くと(良く覗きますが)、この様な様子でした。

 

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その向い側には、「修学院離宮」が、農地と共に見られます。
何時もここに来ると不思議に思うのは、離宮内に農地があると言うことです。
実際に農家の方が、一般には「立ち入り禁止」のエリアで農業をされています。

 

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金網を通して、離宮内を見ています。右手に見える山が「修学院山」かと思われます。離宮の借景になっています。

 

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こちらも上と同じです。

 

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緩やかな坂道を進むと、こんな光景が見えました。
離宮内にある「林丘寺」の山門でしょうか。

 

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「音羽川」です。左手が離宮で、右手の道は比叡山に上る道「雲母坂」(きららざか)です。

 

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近くには、こんな説明板が立てられていました。

山麓の道を、さらに南に向かって歩きました。

 

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緑はあるのですが、陰がありません。辛抱して歩きました。

 

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やがて「曼殊院」が見えて来ました。

 次回に続きます。








 

 

 








2018年6月 4日 (月)

京都・宇多野と鳴滝の歴史探訪(その2)

 前回の続きです。
 宇多野・鳴滝周辺は、起伏に富んだところで、これから行くお寺も坂道を上がったところにありました。
⑥西寿寺(さいじゅじ)

 

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坂道を上がったところに、山門がありました。

 

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山門をくぐった先には、本堂がありました。ちょっと変わった形です。
創建は
江戸時代初期で、浄土宗・捨世派(しゃせいは)の尼寺です。
映画やテレビドラマ等のロケ地として何度か登場するとか。

この後、境内の高台に登りますと、

 

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京都の北西部が展望出来ました。先に見える小山は、「双ケ丘」です。

 

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近くの真下の風景です。

 

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⑦法蔵寺

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その横には、こんな石碑が。

 

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山門まで上がって見ました。

 

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⑧鳴滝址
 現在の「鳴滝」と言う地名の語源となった滝です。

 

⑨福王子神社(ふくおうじ・じんじゃ)

 

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福王寺5叉路の北東角にあります。

 

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拝殿や本殿などです。

 

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ご祭神は、班子女王(桓武天皇の孫で光孝天皇の女御)で、庶民的な方だったとか。

戴いた資料によると、
「宇多野」とは、「ウべなる田、ウべなる野→(良い田、良い野)が語源ではないかとの説がある様に、「宇多野」は古来、風光明美で良い田が広がる土地であった。
「鳴滝」も、古くから風光明美な土地として、多くの天皇陵や公卿の山荘が営まれていた。





 














2018年6月 3日 (日)

京都・宇多野と鳴滝の歴史探訪(その1)

 或る会の主催で、京都市右京区内の北東部にある「宇多野・鳴滝」地区の歴史を訪ねる会に参加しました。
 この地区の知名度は、全国的には多分それ程高くは無いかと思いますが、平安時代から江戸時代にかけて、高い文化的な雰囲気を持ったところだったそうです。
 スタートは、今や全国的に有名になった?「嵐電」の「宇多野」(うたの)駅からです。

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①「光孝天皇御陵・後田邑陵」です。
 平安時代の第58代の天皇で、在位は884~887年でした。55才で即位された。藤原氏が権力を持ち始めた時代です。
 この辺りには多くの御陵が造られました。

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(番外)「御室八十八か所めぐり」の第2番目のお堂です。その傍を通りました。
ここも入口への道の外観だけだったので、敢えて(番外)扱いしますが、「陽明文庫」です。写真も撮っていませんが、知る人ぞ知る、近衛文麿が近衛家に伝わる古文書・古美術品などを一括管理する為に設立した建物です。藤原道長の「関白記」など、国宝などがあります。

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②「円融天皇御陵・後村上陵」です。
 第64代の天皇で、在位は969~984年でした。11才で即位、26才で退位。藤原氏の権力闘争・内紛の時代でした。

③「村上天皇御陵・後村上陵」ですが、参道の入口だけです。

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緩やかな坂を上がって行く様です。
村上天皇は、第62代の天皇で、在位は946~967年の21年間でした。在位中は「天暦の治」と言われる程の政治を行い、後世高く評価されているそうです。

④妙光寺
 <知れば知るほど奥の深い禅寺、それが妙光寺・・・!>と、戴いた資料にはありました。私は以前、ここが隠れ桜の名所だと聞いて行ったことがありましたが、中には入れず外から見て帰ったことがあります。
 臨済宗建仁寺派で、室町時代には「京都十刹」の第八位に位置し、大徳寺よりも上位だっそうです。

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山門です。質素な感じです。

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境内に入りました。隠れ名所らしく桜の木々が並んでいます。

奥の墓地に行きますと、

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野々村仁清の墓です。江戸時代初期に御室に竈を築き、色絵陶器によって京焼の竈に新風を吹き込みました。

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その近くに墓石が落ちている墓は、幕末の勤皇僧・天章和尚のものだそうです。倒幕勤皇の志士達と親交があったそうです。維新後に何故か暗殺されたとか。幕末には、西郷や龍馬などもここに来ていたとか。裏山に逃げる通路が造られていたとか。

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境内にも桜が。

ここで耳よりなお話を。
○国宝「風神雷神図屏風」は、もとはここにあったものだそうです。
 本山の建仁寺に、どの様な経緯で送られたのか?
○神器の間があるそうです。それは、後醍醐天皇が吉野に移る時、この寺で
 仮眠され、三種の神器が置かれたことからの由来。

 次回に続きます。       




















 





2018年3月 8日 (木)

大政奉還150周年(4)鳥羽・伏見の戦い-2

 前回の続きです。
 前回は、「鳥羽」地区での戦いの跡を見て来ましたが、今回は「伏見」地区での戦いの跡を訪ねました。伏見での戦闘は、鳥羽での戦闘が始まって間もなく始まった様です。
 先ず、新政府軍の薩摩藩軍が陣地を構えた「御香宮神社」へ。少し高台にあるので見通しが良かったのでしょう。

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「表門」です。伏見城の大手門を移築したものだそうです。
この前の道を右方向に進むと、明治天皇などの「伏見桃山御陵」に至ります。

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表門をくぐって境内に入ります。社殿等は、この奥にあります。

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かなり中に入って振り向きますと、こんな景色です。左右にも神社関係の建物等がありますから、境内は結構広いです。

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さらに奥には、立派な拝殿があります。

 次に、ここから新政府軍(薩摩藩軍)の砲撃を受けて焼失した、旧幕府軍の陣地だった「伏見奉行所」跡に向かいます。

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例によって、駒札を使わせて戴きます。

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跡地一帯は、広い住宅地になっています。

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石碑と駒札が立っているところです。表門は西向きだったとか。左手になります。ここには、会津藩軍と新選組がいて、戦ったそうですが、壮絶な市街戦の結果、伏見の町の南半分は焼けてしまったとか。

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幸い焼失は免れた料理屋の「魚三楼」の格子戸には、当時の弾痕が残っています。

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町中にある「伏見御堂」は、会津藩の駐屯地でした。

ここで、「鳥羽伏見の戦い」とは無関係ですが、江戸時代の悲劇の跡が、御香宮神社の境内にありますので、ご紹介します。

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またまた、駒札を利用させて戴きます。

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顕彰碑と祠があり、広い土地に設けられています。
そして、狛犬も。

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ちょっと変わった狛犬です。右側です。

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左側です。義民達の怒りを表わしている様に感じました。

「大政奉還150周年」に関係する記事は、今回で一応完了としますが、
大政奉還150周年は、同時に「明治150年」ともなります。
最近この言葉が目に付くようになりました。
関連した行事も行われる様です。ここでも取り上げられたらと思っています。






































2018年3月 7日 (水)

大政奉還150周年(4)鳥羽・伏見の戦い-1

 久し振りのこのテーマです。
 (1)二条城 (2)京都御所・京都御苑 (3)新選組と来ましたが、多分最後となるのは、「鳥羽・伏見の戦い」としました。
 「鳥羽」での戦いは、城南宮や鳥羽離宮跡周辺で、「伏見」での戦いは、御香宮神社から伏見奉行所跡に掛けての一帯で行われました。

 先ず「鳥羽」地区での戦いの跡を、訪ねました。

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文字が小さくて読み難いと思いますが、最初に訪ねた「城南宮」の中の鳥居傍に立てられていた駒札を使わせて戴きました。

「城南宮」の東口から、境内に入ります。

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 石の鳥居をくぐります。

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 参道を進むと、暫くして右手に赤い鳥居が見えます。この赤い鳥居は少し変わっているとか。
鳥居をくぐって境内に入ります。

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 結構広い境内です。左手に神苑の入口があります。
戦いに備えて新政府軍の薩長土藩が、ここに拠点を置いたことも頷けます。

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 拝殿前です。後部の神殿では何かの工事が行われている様です。
お参りをしてから、境内を少し歩きました。

参道に戻ると、かなり立派な説明文が立てられていました。
それは「鳥羽・伏見の戦い」における、ここ城南宮を中心にしたものでした。

 東口を真っ直ぐに進むと、西口に達します。

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 国道1号線を通して、西口の鳥居を見ています。神苑は鳥居の奥の左右に広がっています。神社の区域の広さを感じます。

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 城南宮から西に歩いたところに立っている石碑です。
戦いが始まった「小枝橋」近くです。

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 上の石碑は、右手のガードレールの端近くにあります。
この道を真っ直ぐ進むと鴨川に出ます。
そこに架かっていたのが「小枝橋」です。

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 向こうに架かる橋が、今の「小枝橋」ですが、当時はもう少し下流(左手側)に架かっていた様です。

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 「小枝橋」近くに建つ石碑の近くにある「鳥羽離宮公園」の北寄りにある「秋の山」と言う名の小高い丘です。
ここにも「鳥羽の戦い」に関する碑などが立っています。

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 「秋の山」の頂に登って見ました。
そこにも「鳥羽の戦い」に関する石碑(奥の黒い碑)が立っていました。

この後、「伏見地区」の戦いの跡を訪ねました。

 















2018年2月11日 (日)

京都・二条城の障子開放

 「世界遺産 二条城 冬の特別公開」で、国宝二の丸御殿大広間の障子を特別開放され、大広間の廊下から「二の丸庭園」を眺めることが出来ました。
2/1~3/2の限定公開です。

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二の丸御殿の入口「唐門」は、何時見ても豪華絢爛を感じます。

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見る位置を変えて、上部を中心に見ました。

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二の丸御殿の玄関や建物群です。左手に広がっています。

外から、今回の対象になる「大広間」を見てみました。

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大広間の建物を、外から見ています。確かに障子が外されています。

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大広間を見る位置を変えて見ました。
左手からが、「二の丸庭園」を見るのに、絶好の場所となります。

では、建物の中に入って見ます。

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少し高い位置から見た「二の丸庭園」です。

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僅かに「俯瞰観」を感じます。

この後、何時も見ている「梅林」に向かいました。

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まだ蕾堅しの状態ですが、真ん中の蕾が少し膨らんでいると見るのは、贔屓目でしょうか。

まだまだ寒さが続きます。皆様ご自愛の程を。

 















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