カテゴリー「地域歴史」の152件の記事

2019年6月14日 (金)

京都市内を歩く 二条から壬生まで(3)

 前回の続きです。最終回です。

 「六角獄舎」跡から、直ぐ近くの「武信稲荷神社」に来ました。

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小さな神社ですが、ほぼ全貌です。

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正面です。

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社殿です。

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ご神木の「エノキ」です。

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ご神木のエノキに関する説明の駒札です。

 境内には、①一寸法師とのゆかり や、②坂本龍馬とお龍さんとのエピソード
などの掲示もありました。

 「壬生」地域に入っています。「壬生寺」に向かいました。

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「壬生寺」の山門から、境内を見通しています。

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本堂の前まで来ました。ここは「節分詣で」で凄く賑わうところです。
「壬生狂言」も有名です。

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そして、壬生と言えば「新撰組」ですね。ここは屯所があった「八木邸」です。

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また近くの「前川邸」も屯所として有名です。

 二条から壬生まで、約1時間半強の歩きでした。多くの史跡を訪ねることが出来ました。

2019年6月13日 (木)

京都市内を歩く 二条から壬生まで(2)

 前回の続きです。
 JR二条駅をスタートして、二条城の外をほぼ一周して、
二条城の南側から「神泉苑」に入りました。

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神泉苑は、実はお寺なんです。東寺真言宗のお寺です。
ここは本堂で、ご本尊の聖観世音菩薩が祀られています。

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そして、こちらには平安時代に空海が勧請して祈雨の修法を行った「善女龍王」が
祀られています。

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さらに、これは日本で唯一つの「恵方社」です。その年の恵方に向けられています。
お社が新しくなっていました。毎年大晦日にご住職がお社の向きを変えられるそうです。

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平安京造営の際には、ここは禁苑でした。
また、祇園祭の発祥の地でもあります。境内一帯は、国の史跡に指定されています。
二条城造営の際には、苑域が大幅に縮小されました。
朱色の橋を願いを込めて渡ると、願いが叶うとか。

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神泉苑から御池通を渡って、大宮通を下がって、ここ「二条陣屋」前に来ました。

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門から中を覗いて見ました。中には色んな仕掛けがあるとか。
さらに大宮通を下がって、「三条通」まで来ました。

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ここ三条大宮から「三条商店街」の西の方を見ています。この商店街は、東は堀川通から
西は千本通まで通っている庶民の町です。
左手に見える木々は、三条大宮公園で、ここでトイレ休憩です。

この商店街は、別名「金メダルロード」とも言われ、オリンピックのマラソン選手の「野口みずき」さんが
雨天の日の早朝練習に、ここを走っていたと言われています。

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三条大宮公園の一角では、アジサイが咲いていました。

大宮通から六角通を経て、ここ「六角獄舎跡」に来ました。

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江戸時代、ここに「六角獄舎」がありました。
ここでの歴史上の出来事として、2つが挙げられます。
その1 幕末、近辺で火災が発生し、当時獄に居た「平野國臣」ら倒幕勤皇の志士達が、
     ここで殺された。

その2 幕末、蘭学者の「山脇東洋」が、刑死した人間の解剖を、我が国最初にここで行った。

 次回に続きます。

 

 

2019年6月12日 (水)

京都市内を歩く 二条から壬生まで(1)

 「或る会」の催しで、「二条から壬生まで」を歩きました。6月5日(水)のことでした。

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JRさがの線の「二条駅」西口が集合・出発地です。JRのホームは2階です。
ホームの覆いがユニークです。

二条駅の北側から「押小路通」を東に向かいます。

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やがて「二条城」の「西南隅櫓」が見えて来ました。
押小路通を左折して、「美福通」(びふくどおり)を歩きました。二条城の外濠に沿って。

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やがて「西門」が見えて来ました。

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城の北西角に来ました。

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狭い通りが見えましたが、「竹屋町通」です。二条城の張り出しのために、通りが
少し屈折してここに繋がっています。この先は「千本通」に出ます。

 外濠の北側を東に向かって歩きます。

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やがて「北大手門」が見えて来ました。城内への車の出入りは、ここからです。

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二条城の東南角に来ました。右先には、さっきの「北大手門」が見えます。

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やがて正門である「東大手門」に来ました。
明治になって宮内省の所管になり、昭和14年まで「離宮」でした。

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「東南隅櫓」に来ました。外濠は南の部分です。その先が当初の「西南隅櫓」に至ります。

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「南門」前に来ました。以上で「二条城」の総ての門を見たことになります。
そして、始めの「押小路通」に来ました。

 次回に続きます。

2019年5月 4日 (土)

歴史の町ウォーク・亀岡(5)

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(手違いでここに入って仕舞ました、後程説明させて戴きます)

 

 

 前回の続きです。
 今回のウォークも終盤となりました。

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町中での1シーン。

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「稱名寺」です。生憎山門(薬師門)は工事中でした。城下で一番古い薬師門(元禄時代)
とのこと。
横手から境内に入らせて戴きました。

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本堂です。

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この梵鐘には、戦時下の傷跡が残されています。

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それはこの4つの穴です。説明によりますと、戦時下に金属供出で一旦出されましたが
奇しくも生き残り、終戦後返還されました。供出時金属分析のために試料として取り
出されものだそうです。

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街角に建つ「毘沙門堂」です。国分寺から明智光秀がここに安置後、
小早川秀秋の守護としたとか。

 その右隣にある「聖隣寺」です。

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山門前に建つ石碑です。

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境内を覗いて見ました。小早川秀秋の子菩提寺で、秀勝が建てたとか。
織田信長の五輪塔もあるとか。

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先の石碑の左側にはこんなものも。

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「坂部公園」の一角には、総堀のお土居が残っています。
この坂部氏は、槍奉行だったとか。坂部氏は後に「日本クロス」(京都市内)を
経営されていました。

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日本クロスの創業者・坂部三次氏像です。

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「三宅神社」です。古代奈良時代より年貢の屯倉に由来します。
建物は元禄時代頃のものとか。

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最後の見学地です。藩主形原松平家の菩提寺です。
形原松平家は、徳川譜代の大名で、この地で明治まで8代121年間続きました。
境内の撮影は禁止でした。境内には、歴代藩主の墓碑がありました。
流石大名家のお墓は立派でした。

 以上で、「歴史ウォーク・亀岡」は終りとさせて戴きます。

 なお、「亀岡市」は、京都市の西に位置し、京都市・宇治市に次ぐ人口8万8千人の都市で、
京都府下3番目の都市です。
 亀岡祭・亀岡光秀まつり・佐伯燈籠祭・保津川下り・嵯峨トロッコ列車・湯の花温泉などが
あります。
 

 

 

 

 

 


 

2019年5月 3日 (金)

歴史ウォーク・亀岡(4)

 前回の続きです。
 城下町・亀岡を歩いています。

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「形原神社」に来ました。ここは亀山城の大手門があったところだそうです。
亀山藩の最後は、形原松平家8代にわたって藩主を務めました。
形原松平家は、三河の出身です。ここは拝殿です。

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本殿です。ご祭神は、形原松平信岑(のぶみね)です。

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本殿の屋根の棟に、〇に利の字が見られます。

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ここにも。その謂れは、次の通りです。
形原松平家の家紋の〇に利の字は、4代家広が三河・大樹寺合戦の時に、
「利即是」の旗を掲げて戦い、あまりにも激しい戦いのために旗の「利」の文字
を残すのみになりまし
た。子孫がその武勲を忘れないために、家紋としたとか。

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「本町通り」です。城下町で本町通りとか大手門通りと言えば、メインストリートですね。
東西の通りとなります。手前が「形原神社」です。

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「亀岡祭」には多くの山車が出ます。ここはその山車の倉庫です。

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ここは「矢田町」です。その説明板です。山車は写真の通りです。

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この辺りにはお寺が多く見られました。歩いたコースでは、お寺が多い様に思いました。

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「古世地蔵堂」です。平安時代の武将・源 頼政の守り本尊がお祀りされています。

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お堂の上に掲げられている扁額です。

 次回に続きます。

2019年5月 2日 (木)

歴史ウォーク・亀岡(3)

 前回の続きです。
 「亀山城跡」(大本本部)を離れて、町中を歩きました。

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亀山城の「外堀」跡です。

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「元秋葉神社」です。
江戸時代の宝永年間に城下で大火があり、防火の神様として浜松から「秋葉三尺坊」が
祀られました。

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再び「外堀」に出合いました。流石城下町です。

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流石歴史の町、酒蔵にも出会いました。

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酒造家の表側の様子です。確か酒造家は2軒あったと思います。

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「マツモト」と見ました。スーパー「マツモト」は亀岡が発祥の地だそうです。
今は店舗はなく、物流拠点になっているそうです。

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古民家が、「観光案内所」になっていました。

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こちらの古民家も、観光拠点になっていました。

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亀岡の三大偉人は、石田梅岩(心学の提唱者) 出口王仁三郎(大本教祖) 
山脇東洋(初めて腑分けをした)と言われていますが、その「山脇東洋」の
邸宅跡が、この建物です。

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今年はさぞ盛り上がることでしょう。

 次回に続きます。

2019年5月 1日 (水)

歴史ウォーク・亀岡(2)

 前回の続きです。
 JR亀岡駅から、南郷公園を経て、「亀山城」跡に来ました。
 現在、「亀山城」跡は「宗教法人・大本」の「天恩郷」になっています。

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「大本」の関係建物は避けて、城跡を主にご紹介します。

城と言えば「石垣」ですが、復元されたものだそうです。

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慶長年間、亀山城は「天下普請」として、西国大名を動員して整備されました。
その時に、自藩の印を付けて石垣を築きました。

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嘗ての「内堀」が池になっています。カキツバタが植えられています。

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復元された「天守石垣」です。

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下から約3分の1は、光秀が築城した当時の「穴太積み」だそうです。

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反対側から見ています。

 次回に続きます。

2019年4月30日 (火)

歴史ウォーク・亀岡市内(1)

 取材が出来ましたので、再会させて戴きます。

 或る会の行事で、「歴史ウォーク・亀岡」に参加しました。
 私にとっても久し振りの「亀岡」です。
 この行事の動機は、来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台の一部が
亀岡になているからです。

 主人公の「明智光秀」は、織田信長の命により、天正5年頃(1577年)に「亀山城」
(当時は亀山と言いました)を築きました。

 JR亀岡駅に集合し、ここからスタートしました。

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JR亀岡駅の正面の様子です。駅舎の形は、何かを模したものだとか。
説明があったのですが、聞き取れずに終わっています。

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田中源太郎翁は、亀岡の出身です。
背景は、亀岡駅ホームです。

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駅の近くでは、「京都スタジアム」(サッカー場)の建設が進んでいます。

 先ず、駅前から南に進み、「亀山城」跡に向かいました。

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亀山城の外堀が池になっている「南郷池」の近くでは、「明智光秀」像(5月3日の光秀まつりで
覆いが開かれるとか)と、城の天守に取り付けられていた「鯱」が建てられていました。

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外濠は、南郷池を中心とした「南郷公園」となっています。右手の森が「亀山城」跡になります。

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池の傍には、こんな石碑が建っていました。

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池の西の「中の島」には橋が架けられていて、左手には嘗て「弾薬庫」があったそうです。

 この後、池の東側から南に進み、「亀山城」跡に向かいました。

 次回に続きます。

 以下の2枚は心ならずも入ってしまった写真です。
 今のところ、削除の手段が不明です。

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2019年3月11日 (月)

京都市電写真展を見る

 地元紙で、「今昔写真から見える京都の変遷~市電の音が聞こえる風景と現在~」が、「ひと・まち交流館京都」で開かれているのを知り、見に行って来ました。2月25日までの開催でした。最終日の25日に行ったのですが、結構多くの方が来られていました。
 写真は、昔(と言っても昭和40年代)の写真と、ほぼ同じ場所の現在の様子を並べて展示されていて、判り易かったです。約300枚が展示されているとのことですが、私が興味を持ったところに絞って、ご紹介したいと思います。

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最も感銘を受けたのは、この場面でした。今のJR奈良線です。
左の場面は、昭和45年撮影とありますが、未だその頃でもSLが走っていたのですね。
稲荷駅近くでしょうか。現在の稲荷駅は外国観光客で大賑わいです。

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京都市電で一番懐かしいのが「北野線」を走っていた「チンチン電車」です。
京都駅前から北野天満宮前までを往復していました。

「北側」とあるのは、四条通辺りを境にしての「北側」と言うことの様です。
次の「南側」は、文字通り四条通から南部を指します。

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「チンチン電車」は堀川通を走っていましたので、この場面がありました。
見えるのは、「東南櫓」でしょうか。

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「チンチン電車・北野線」の終点だった「北野天満宮前」と「車庫」の様子です。
「車庫」の跡は、「こども文化会館」になっています。

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今度は、「トロリーバス」です。電気を取り込むトロリーが付いたバスです。
特定のコースだけに走っていました。確か西大路四条から西へ、梅津までだったかなあ?

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祇園祭の山鉾巡行のスタート地点である四条烏丸付近です。
巡行時の市電の架線の影響を排除したのも京都ならではのことでした。

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京都駅前での景色です。黒っぽいビルは、京都タワービルです。

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「京都市役所」の傍、河原町通線を走る市電です。
市役所の建物も時代を感じさせる年代ものです。
見える「メモ」は、何かの思い出を書いて欲しいと言う事務局からの要望に応えられたものです。

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市電ではないのですが、人気の「嵐電」です。

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「円町」とは、西大路通と丸太町通との交点で、見えるガードはJR山陰線(現在はさがの線の愛称も)のもので、西大路通は「アンダーパス」になっています。
左の写真は、撮影時期不明とのことですが、可なり古い時期のものと思われます。

 最後に京都市内を走った電車(後に市電となる)の歩みを、簡単に記したいと思います。

●明治27年2月 京都電気鉄道会社設立(京電)

●明治28年2月 京電 伏見線開業(日本初の路面電車)

●明治45年6月 京都市電開業

●昭和7年4月  京都市営トロリーバス開通 四条大宮~西大路四条間

●昭和29年3月 市電白川線開業

●昭和36年6月 市電北野線廃止

●昭和44年10月 トロリーバス廃止

●昭和53年9月 京都市電全廃





2019年2月 5日 (火)

京都・島原・角屋を見る(3)

 前回のつづきです。
 1階を見た後は、2階に上がりました。こちらは一切撮影が禁止されていましたので、案内の女性から、丁寧な説明を聞きながら、各部屋を回りました。
 2階の主座敷の「緞子の間」の他、翠簾(みす)の間、扇の間、草花(そうか)の間、馬の間、青貝の間、桧垣の間など、趣向を凝らした部屋部屋でした。

 今回は、最後に「大座敷・松の間」を、ご紹介します。1階の奥座敷です。

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立派な床の間が、部屋の雰囲気を落ち着かせています。掛け軸は、墨絵の山水画です。

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床の間から右に目を移すと、この様な様子です。

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近寄って見ますと、凄いです。

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襖絵は、岸連山筆「桐に鳳凰の図」です。

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さらに右手に目を移します。

そして、この部屋の名前「松の間」の由来は、庭にある「臥龍松」です。

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庭全体に広がる松の枝です。

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松の枝の奥には、茶室が3つあるうちの1つが、奥に見える茶室です。
茶室は、左手にも2つあるとのことです。

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今繁る松は、2代目です。元の松は枯れて仕舞って太い幹のみが残っています。

◆島原と角屋について

●島原は、昔は花街の1つでした。

●その後、遊宴の場である「揚屋」と、揚屋に太夫や芸妓を派遣する「置屋」の分業制でした。角屋は揚屋でした。

●その後、この制度は消滅し、大型の宴会場に変わって行きます。

●さらに、遊宴に留まらずに俳諧などの文芸の場にもなって行きました。

●幕末には、勤皇倒幕派の武士達の密議の場にもなりました。

●角屋は、島原開設当初(寛永18年・1641年)から存在しましたが、現在の規模になったのは天明7年(1787)の増築後のことです。












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