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前回の続きです。
「観覧温室」内でのことです。
花も変わっていますが、形も変わっていると思ったのは、私の勘違いでした。
その説明板です。
花の形が分かり難いですが、上にあった「実」状のものは見当たりません。
横から良く見ると、花の真ん前に「実」がぶら下がっていたと言うことでした。
「バオバブ」です。テレビなどで良く見る、太い幹に上に細い枝状のものが
立っている状態の樹木です。
その説明板です。写真の木と少し違う感じもしますが・・・。
「アフリカバオバブ」の幹が、こんな状態になっていて、驚きました。
「奇想天外」と言う、けったいな名前の植物です。以前心無い人が盗んだことを気憶
しています。
その説明板です。
その根っこの部分です。名前と言い、形と言い、そして寿命と言い不思議
一杯の植物です。
次回も続きます。
12月も半ばになり、何か心忙しく感じる中、
12月14日(土)の午前に、京都府立植物園に行きました。
幾つか見たいものがあり、思い切って行きました。
見たいものとは、
〇「フウ」の紅葉は?
〇「ポインセチア展」へ
〇その他珍しいものは?
などです。
先ず「ポインセチア展」から。観覧温室内で、3か所で
約100品種、約700鉢が展示されています。
始めに、観覧温室に入って直ぐの展示から。
「品種見本コーナー」から。全景です。
花びらの様に見えるのは「苞」と言って、葉っぱが変化したものだそうです。
花は、苞の集まりの中心にあるとか。
斑点や半夏生的な苞です。
こんな変化もあります。
真紅では無く、ややピンクっぽい色です。
この色こそが、クリスマスを彩る真紅ですね。
苞の形が今までとは違います。
こちらも苞の形が波打つ様な感じです。
本来の色?の集まりです。
純白の苞です。
この木には、ポインセチアの「和名」の「ショウジョウボク」(猩々木)の名札
が見られます。何故これだけが?
次回に続きます。
前回の続きです。
「七条大橋」からは、再び鴨川の右岸の河川敷を
歩きます。
「塩小路橋」です。1953年の架橋で、長さは 53m 幅は 11m です。
比較的小さな橋です。
次の橋は、やや複雑です。JR関係の橋が重なります。
上流から見ています。
手前の橋が、JRびわこ線が通る橋で、「JR加茂川橋」とか「鴨川橋梁」とか言います。
その先には、「新幹線」の橋があります。
下流側から見ています。手前が「新幹線」の橋、その向こうが「びわこ線」の橋です。
もう1つ、鉄道用の橋(橋梁と言った方が)がこれです。
「JR奈良線」の橋です。「鉄橋」ですね。鴨川を斜めに横切っています。
この辺りも、堤防の低さが目立ちます。手前の石積みは、そのままで平地に繋がって
います。川の流れは少し離れた所にあります。
また少しややこしい形になっている橋に出合います。
「九条こせん橋」と言います。上流から見ています。
「こせん」=「跨線」 何の線路を跨ぐかと言えば、JR奈良線と京阪電車京阪本線
の2つの線路を跨ぎます。左手先に「東福寺駅」(JRと京阪とも)があります。
実は左側のずっと先から、九条通がカーブして橋となっています。
1933年に架けられています。長さは 418.33m(長いです) 幅は 18m です。
並んで歩道橋が架けられています。「東山橋」です。下流から見ています。
手前の橋です。長さ 68m 幅 18m です。
「陶化橋」です。十条通に架かる橋です。1997年架橋、長さ 90.9m 幅22m。
高速道路に繋がる橋です。
「勧進橋」です。こちらも鴨川を斜めに横切っています。
1947年の架橋で、長さ 88.7m 幅 19m です。
いよいよゴールの橋に来ました。
「くいな橋」(水鶏橋)です。1954年架橋、長さ 94m 幅 8m です。
「くいな橋」の上から、上流をみています。
左手の高架橋は高速道路、遠くに見えるのは「比叡山」や、東山連峰です。
帰りは、近くにある市営地下鉄・烏丸線の「くいな橋駅」から乗車しました。
京都市内の主な河川は、
(1)賀茂川と高野川が合流して、鴨川になるところ
(2)保津川・大堰川~桂川になるところ
の2大河川で、どちらにも多くの橋が架けられています。
前回の続きです。
「五条大橋」から左岸を歩きました。
「正面橋」です。「正面通」に架かる橋からの命名です。
何処の「正面」?それは東にある「方広寺」(かつては大仏さんで有名)の正面から
付けられたとのことです。西にある「西本願寺」の「正面」とのことも聞いたことが
ありますが・・・。
1952年に架橋、長さは 71.15m 幅は 5.82m。
橋の畔には、この様な「擬宝珠」が見られました。
この辺りは、堤防の高さが低いです。
「七条大橋」です。1913年に架けられた最古の橋です。でもモダンな感じがします。
橋の長さは、 81.9m 幅は 17.8m です。
橋のほぼ全景です。
橋の親柱に示す表示です。近寄って見ました。橋のアーチや橋の欄干など
目を惹きます。その後の欄干の模様も気になります。
ここから再び右岸を歩きました。
橋の南西部分には、
「松明殿稲荷神社」と言います。
正面を拝観しています。
その説明板です。
次回に続きます。
前回の続きです。
「四条大橋」を越えて、次に向かいます。
次は、「団栗橋」です。「団栗通」(東は花見小路通~西は木屋町通)の極短い通り
に架かる橋です。
1963年に架けられた橋で、長さ 61.5m 幅 9.5m の小さな橋です。
「松原橋」です。1959年に架けられた橋で、長さ 83.55m 幅 6m 。
こちらも比較的小さな橋です。
「五条大橋」に来ました。上流側から見ています。ここから左岸に移ります。
昔の橋脚の石柱です。橋の近くに置かれていました。
対岸に渡ります。立派な「擬宝珠」です。
そんな「擬宝珠」の1つに、何か文字が刻まれています。
「明治十年・・・」と刻まれていますが、良く読めませんでした。
橋の上から上流(北)を見ています。
こんな話を聴いています。この川幅は、平安京の中心大路・朱雀大路の道幅とほぼ
同じだと言うことです。如何に「朱雀大路」が広かったか、驚きです。
この「擬宝珠」にも、多くの文字が見られます。
左岸の橋畔には、こんな説明板も立っていました。
こんな説明板もありました。左が上流です。字が小さくて読み難いと思いますが、
右から4つ目が、「五条大橋」(赤字で表示)です。
「五条大橋」は、1959年に架けられました。長さは 67.2m 幅は 35m(最大)です。
左岸・下流側から見ています。
次回に続きます。
秋の日の半日、老人クラブの歩きの会で、
「鴨川に架かる橋」を辿って河川敷を歩きました。
11月18日(月)のことです。
スタートは、「丸太町橋」からです。
河川敷が整備されているので、比較的安全に
歩くことが出来ます。
鴨川の右岸・下流から、「丸太町橋」を見ています。堤防や橋の一部が工事中の様です。
1991年に架けられました。橋の長さは 92m、幅は 22m です。
集合場所の様子です。参加者は毎回約800~900名位と聞いています。
京都市内の11区から集まって来ます。
午前9時45分スタート(何時も)です。担当区が先頭です。
川の向こうに見える橋は、「琵琶湖疏水」の伏見地区に流れる分岐点です。
「疏水分線」となります。鴨川にも、一部流れ込んでいます。
その上に掛かる木造の橋です。
「二条大橋」です。1943年に架けられました。
橋の長さは 85m 幅は 12m です。
「御池大橋」です。1964年に架けられました。
橋の長さは、82m 幅は 29m です。市内でも道幅が広い「御池通」に架かる
橋ですから、橋幅も広いです。右に進むと「川端通」に突き当り、左右に分岐します。
「三条大橋」です。橋の中でも最も趣きがある橋です。謂わずと知れた「東海道」
の始・終点です。橋の欄干などは、唯一木造です。
橋は、1950年に架けられました。橋の長さは、73.3m 幅は 15.5m です。
橋の一部をアップで見ています。橋の擬宝珠には、「刀疵」があるとか。
その下流では、鳥達の姿がありました。「ユリカモメ」?最近は数が減っているとか。
「四条大橋」ですが、見たいものがあって、上流側から見ています。
見たいものとは、真ん中から左寄りの建物です。芝居小屋「南座」です。
最近耐震工事が終わってリニューアルされました。
この日は、「年末恒例・顔見世興行」が催されていました。
下流側から、アップで見ています。
「四条大橋」は、1942年に架けられました。
橋の長さは、 64.8m 幅は 24m あります。
次回に続きます。
前回の続きです。
園部藩では、当初は「陣屋」でした。
幕府に城の造営を願っていた様ですが、中々許されず
大政奉還後、明治新政府になって漸く築城の許可が下り、
完成したのは、明治2年(1869)のことでした。
まさに日本最後の「近世」城郭となりました。
しかし、明治4年には廃藩置県により「園部藩」は無くなり、
翌5年には、建物は払下げになって仕舞いました。
現在残っている城郭は、城門と巽櫓と番所(城門横)だけです。
城門前の様子です。
「城門」です。現在は、「京都府立園部高校」の校門になっています。奥に見える
建物は、校舎です。
「城門」を内側から見ています。右手に少し見えているのは、「番所」です。
もう1つ残っているのが、この「巽櫓」です。
「城門」に向かって、左手にあります。
立つ位置を変えて、見ています。
「城門」の近くには、こんな紅葉が見られました。
さらに、その右側には一寸した庭園がありました。
同じ区域です。
「園部藩」は、地方の小藩でしたが、明治維新まで10代に亘って維持されて来た
ことは、藩主以下藩全体で上手く運営されて来た結果ではないかと思っています。
京都府南丹市園部町へ行って来ました。
令和元年11月26日(火)のことです。
行った動機は、南丹市文化博物館で催されている展覧会と、
その近くにある「園部城跡」を見る為でした。
①展覧会は、「園部藩の歴史と文化」と言うものです。
②日本最後の「近世」城郭と言われる「園部城跡」を見ること。
でした。
①展覧会は、勿論写真は撮れませんので、文章で表現したいと
思います。
◆園部藩は、元和5年(1619)、但馬国出石藩主だった「小出
吉親」が、丹波国船井郡を中心とする所領へ転封となったことに
より成立した藩です。明治期の廃藩置県まで、約250年間存続
しました。10代続きました。
◆展示は、
(1)園部藩の成立 (2)園部藩主小出氏 (3)園部藩政の展開
(4)園部藩の町と村 (5)幕末維新と園部藩 (6)園部藩の終焉とその後
と言うもので、博物館所蔵の品を中心に、個人蔵も多数あり展示されていました。
見応えがありました。
左は、今回の展覧会のパンフレットです。
人物像は、左が園部藩初代藩主・小出吉親像、その右はその夫人像です。
右は、当日購入した図録(平成20年度・秋季特別展)です。展覧会の内容はほぼ
同じものでした。
南丹市立文化博物館の外観です。1階が図書館に、2階が博物館になっています。
◆小出氏は、当初は豊臣秀吉に近かった様です。関ケ原の合戦では、身内で
東西に分かれて戦った様ですが、東軍に付いた身内が上手く執成して徳川に認められ、
約3万石の小藩の外様大名として江戸時代を生きたとのこと。
展覧会を見た後は、近くにある「園部城跡」へ行きました。
博物館の傍に建っている「南丹市立国際交流会館」です。始めはこれが城跡かなと
思って仕舞いました。
近くには、こんな幟が立っていました。
会館と城跡の間は広場になっていて、美しい紅葉が見られました。
こんなに大きな石造物もありました。「きつつき」でしょうか?
昔の「園部大橋」の親柱が移築されていました。
次回に続きます。
前回の続きです。
私が「好きな木」の「フウ」の紅葉を見に行きました。
「アジサイ園」の近く、小さな「蓮池」の傍に、「フウ」は立っています。
全体の様子です。所々色付いていますが、台風にやられる前の状態では無いです。
台風に激しく傷め付けられたのでしょうか。
色付きが進んでいる部分を見てみました。
冷気が早く当たる木のトップを見ています。
枝が垂れている部分も、結構色付いています。
この枝は、ほぼ完全に紅葉しています。
グラデーションが見事です。
結局、全体の紅葉は、未だ少しかかる様に感じました。
全木紅葉の時期に見に来られるか?
長々と引っ張って来た「今年の私の紅葉」は、今回で終わりとさせて戴きます。
多少の未練がありますが、すっぱりと終了とさせて戴きます。
長くお付き合いを戴いた方には、厚く御礼を申し上げます。
有難うございました。
年末のこととて、何かと仕事がありますので、暫くは散発的な記事になるかと
思います。
前回(11/08 )から、紅葉がより進んでいる筈と考えて、
植物園に行って見ました。11月27日の午前でした。
その結果、予想が的中しました。
では、その様子をご覧戴きましょう。
園内で紅葉が集中している場所への入口の様子です。右手の小道です。
期待出来そうです。
その場所は、池の周りです。
向こうに見えるのは、池の傍にある「東屋」です。
「東屋」からの眺めです。
未だ池の周りにいます。
池から離れて、もう一つの池(蓮池)に向かいます。
池の近くに来ました。
今の時期、蓮は勿論こんな有様です。こちらにも「東屋」があります(左手)。
所々に見られる「黄葉」を見て回りました。
「蓮池」の「東屋」が見えます。
未だ「四季桜」は、花を付けていました。紅葉とのコラボです。
未だ緑の部分も見られます。
ちょっと葉っぱの付き方が面白かったので、撮りました。
「オオバベニガシワ」と言います。中国(中南部)原産です。「トウダイグサ科」です。
この後、気になる「フウ」の紅葉の様子を見ました。
次回に続きます。
「京都御苑」の紅葉は、余り知られていない・穴場かなと
私は思っています(私が知らないだけかも)。
私は最近行く様になったのですが、
今年もじっくりと「紅葉狩り」を楽しんで来ました。
御苑の西側、烏丸通が時々見えるところ(道)を、北から
南に向かって歩きました。
烏丸今出川から歩いて、「乾門」から御苑内に入りました。
御苑内に入って直ぐの様子です。東の方を見通しています。
「京都御所」は、イチョウの木の先の右側です。御所の北辺になります。
では、ぼちぼち歩き始めましょう。
松林の中を歩く感じです。そして、所々に「紅葉」する木が点在しています。
右手奥に、御所の築地塀が見えます。御所の西側になります。
紅葉している木(楓?モミジ?)は可なり大きいものも見られます。
この様に広く枝を伸ばしています。木の姿が良いですね。
奥に見えるのは、「宜秋門」です。
林の中の小道を歩きます。
この辺りは、色付いた木々が多いです。
未だ「宜秋門」から離れないところを歩いています。
華やかです。
地上に届きそうな枝振りです。「枝垂れ」と言うのでしょうか?
次回も続きます。
今まで、「天神さんの紅葉」とは余りご縁がなかったのですが、
今年は思い切って行って見ました。
ここの紅葉の名所は、「御土居の紅葉」です。
「御土居」の入口に建つ、裏千家前家元・千玄室さん(天満宮講社会長)の
筆による「御土居の紅葉」の石碑です。
中には入らず、外から撮っています。
御土居への入口付近から見た紅葉です。
御土居の石垣と柵の向こうに、紅葉の木々があります。
上と同じ様な状況です。
少し中の方を見ています。
確かに見事な紅葉です。
「御土居」以外の場所での紅葉です。
最近出来た「曲水の宴」用の近くでの紅葉です。
境内の一角での紅葉です。
社殿の内側から撮りました。
北門の近くにある「イチョウ」の黄葉です。
ここで「独り言」。
実は、「御土居の紅葉」をみるのには、大人一人千円が要ります。
お茶菓子付きです。お茶菓子は要らないから、五百円にしてほしい。
大覚寺でも天龍寺でも、五百円でした。無理にお茶菓子を飲ませるな!
天神さんの商魂の逞しさを感じます。
ですから、私は中には入らず、外から撮っているのです。
昔は、タダでした。
前回の続きです。
「天龍寺」の拝観を終えて、次のポイントに向かいます。
そこは、天龍寺の塔頭の1つ、紅葉の名所「宝厳院」です。
天龍寺からだと、「宝厳院」の北側から、紅葉を見ることになります。
何時ものことながら、境内には入らずに外から拝観します。
それでも結構、紅葉は拝観出来ます。
中の様子を窺いつつ、塀越しの紅葉を拝観します。
中はさぞかし凄いことでしょう・・・。
紅葉の色の変化に魅せられます。
背景の山容は、嵐山連峰(?)です。
緑との共存も良いですね。
萱葺の屋根は、山門で拝観の入口になっています。背後の山容は、嵐山連峰?
です。
宝厳院の紅葉達ともここでお別れです。
この後は、「嵐山」の様子を見に行きました。
次回に続きます。
前回の続きです。
天龍寺の境内を、専ら紅葉を辿って歩いています。
「百花苑」から「北門」付近をうろついています。北門の近くは「竹林」になっています。
右手に見えている屋根は、北門です。
紅葉の写真を撮る時は、光を通して(逆光)が良いですね。
この木の葉っぱは、小さい様です。
こちらも竹林の近くでの様子です。
良く「紅葉って」(私の造語です)います。
多分「紅葉る」(こ相応しい条件が揃っているのでしょうか?
近くに池があって、水分が十分。里山なので気温の温度差が大きいなど。
「曹源池」の裏側を歩いています。
これも「紅葉」に向かうのかな?それとも「黄葉」が完成かな?
この辺りは、紅葉林が続きます。
そろそろ出口が近い様です。
色の変化が素敵です。
外に出ました(と言っても、まだ境内ですが)。
左手は、「庫裏」の入口です。その近くも「紅葉」が。
次回も続きます。「宝厳院」に向かいました。
前回の続きです。
「大覚寺」から、嵐山に近い「天龍寺」に遣って来ました。
大覚寺と違って、嵐山の景勝地にある為、外国の観光客
を含め、多くの人で「雑踏状態」でした。
天龍寺と言えば、先ず有名なのは「曹源池」です。
開山の「夢窓疎石国師」が造ったとされています。
曹源池の西端を見ています。
曹源池の真ん中辺りを見ています。
少し大きくして見ています。
池の東端付近です。
この後、北の部分にある「百花苑」の方に向かいます。
その途中には、紅葉のパラダイスです。
高い木も、見事に紅葉しています。
百花苑には、色んな植物植えられていますが、今は見るべきものは無かった様に
思いました。専ら紅葉・黄葉です。
兎に角見事でした。
続いて同様に。
次回に続きます。この後、北門付近から曹源池の裏側を歩きました。
前回の続きです。
「大覚寺」の建物内を拝観しています。
「五大堂」(本堂)から、外縁に出ました。そこから近くには「大沢池」が見渡せました。
再び渡り廊下を歩き、次の建物に向かいます。
ここは「勅封心経殿」と言って、大覚寺では最も大切なところです。
その説明板です。
境内のあちこちで、多くの紅葉が見られました。
赤と緑のコントラストが綺麗でした。
お堂に囲まれて、多くの庭に色付いた木々が見られました。
上と同じくです。
「大覚寺」は、真言宗大覚寺派の本山です。正式には、旧嵯峨御所大覚寺門跡
と言います。元は、平安初期に嵯峨天皇が壇林皇后と結婚された時に、離宮として
造られた所です。離宮・嵯峨院です。後に皇孫が開山され「大覚寺」となりました。
明治時代初頭までは、門跡寺院でした。
次回に続きます。「天龍寺」に行きました。
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